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「『ホホ・ソダル』解説」の訳
『ホホ・ソダル(大元盛世青史演義)』は1830〜1891年に執筆されたモンゴルの歴史小説である。この物語は長い間、手書き写本によって伝えられていたが、1938年には当局の管轄下にあった北京のモンゴル書記院より木版によって第三十章までが五巻本として出版され、1939年には、ブフヘシグの運営していた開魯市のモンゴル文学研究会議から全六十九章が石版による十二巻本として出版されている。このモンゴル文学研究会議から出版された版は、序章を分冊する全十三巻本となっており、『ホホ・ソダル』の作者インジャンナシの自宅より発見された原稿をそのまま使用しているため、それまで出版された版のなかでは最も章数が多かった。さらに1944年には、チョーロルト・ハールガ(現在の張家口)市にあるモンゴル語研究所が開魯での出版物を元にして鉛版を用いて再版を試みたが、実際に出版されたのは序章から第十一章までを含めた第一巻だけだった。
今回出版(訳注:内蒙古の1957年版)された全三巻は、モンゴル文学研究会議による出版物を原本として他の版や手書き原稿も参照し、誤字脱字を改めて出版したものである。インジャンナシの手書き原稿(一部分のみ)、油版(?)、石版、鉛版、およびその他の分冊はすべて内蒙古歴史言語研究所に収められている。
『ホホ・ソダル』は本来では百二十章あるはずだといわれているが、現存するのは六十九章のみである。インジャンナシはこの作品を執筆するにあたって、元朝の終焉までを描写するつもりでいたようだが、実際に最後まで執筆されたかどうかは判明していない。この六十九章のうち、六十章はチンギス・ハーンが生まれてから亡くなるまでの出来事を主に描写しており、最後の九章はオゴテイ・ハーンの時代の出来事を描写している。
この作品の作者インジャンナシは、内蒙古のジョスト盟トゥメド・バローン旗(現在の遼寧省の北票郷)においてショダルガ・バト・ホローの貴族の家に生まれ、生年月日は1837年5月15日(当時の暦では17年ウラクチン酉年4月16日)である。
インジャンナシは幼名をハスチョロー、中国語名を宝衝山(ポー・デャンシャン)といい、潤亭(フォインティン)という称号を持つ。彼は当時のトゥメド・バローン旗の忠信府にワンチンバルの第七子として生まれた。母親の名前はマンヨシャルで、六番目の兄の名前はスンワイ・ドンツォグ(ポー・シュンシャン)という。
インジナシの父・ワンチンバル(ポー・ジャンシャン)(1795〜1847) は文武両道の才能に恵まれた人で、『ホホ・ソダル』の最初の八章を書いたのはワンチンバルだったが、彼が第八章を書き終えた1840年にはアヘン戦争が勃発したため、執筆を中断して旗の軍隊を率いて参戦した。**市付近では**の侵略者の一団と戦って退けるという大きな功績を収めている。インジャンナシの兄・スンワイドンツォグもまた非常に才能のある人物で、インジャンナシを助けて『ホホ・ソダル』の一部を執筆し、『通鑑綱目』という中国語の歴史書を資料としてモンゴル語訳し『ホホ・ソダル』の執筆に貢献した。
このような家庭環境にあって、インジャンナシは幼少の頃からモンゴル語と中国語を身に付け、十代の頃から詩を作ったり絵を描いたりした。彼の幼少時の詩集には、彼自身による山と雲を描いた挿絵が収められている。さらに山水や人物、動物、草花も実に巧みに描き、『**の花と雀』などの優れた絵画を残した。このことからしても、インジャンナシが非常に幼いころから文芸を身に付け、芸術的才能に恵まれていたことがうかがえる。インジャンナシはモンゴル語の本だけでなく中国語で書かれた歴史書である四書五経や『**』、『三国史』などの古典を読んで研究を行なった。彼自身の著作『ネゲンダプハル・アサル(平屋建て)』でも、『紅楼夢』に関する簡単な紹介がなされ、中国の古代の詩歌や文芸も流麗な**語を用いて書いた。彼はまたモンゴル語と中国語に精通していただけでなく、満州語とチベット語を読むこともできた。
インジャンナシは二十歳になるまで読書や詩作に励んでいたが、宗教的な影響を受けて運勢というものを信じており、時には当時の暗い世相を嫌って、隠遁生活を送りたいと考えていたようである。二十歳を迎えてからの彼はモンゴルの歴史書を読み始めるようになったが、これは後に『ホホ・ソダル』を生み出す基礎を与え、彼を民族的アイデンティティに目覚めさせたきっかけの一つと考えてよい。
しかし、インジャンナシは若い頃、自宅にこもって読書をしていただけでなく、モンゴルの各地を旅行してモンゴルの識者たちを訪ね歩いている。また、内地以外に北京、金州などの都市に何年か居住していたため、当時のモンゴルや中国、さらに世界の状況にも精通していた。
当時、中国の多くの民族の民衆は地方行政と清朝の圧制という二重の抑圧に苦しめられており、困難な生活を強いられていたが、これはインジャンナシの家庭生活にも影響を及ぼしている。そのため彼は「三十歳以降は生活状況が悪化し、妻子も亡くなってすべて物事がうまくいかなくなった」と述懐しており、紙に向かい合って詩作に没頭し、当時の暗い世相を批判した小説を書いて過ごすしかなかった。その後、インジャンナシは非運のうちにソムの役人となった。インジャンナシは『ホホ・ソダル』だけでなく当時の社会を舞台とした『ネゲンダプハル・アサル(一層楼)』、『ウラーナー・オヒラフ・タンヒム(泣紅亭)』などの小説を著し、階級闘争や封建主義支配などを痛切に批判した。
1891年にはインジャンナシは金丹道の乱を逃れて金州市に移り住み、翌年の1月9日(光緒十七年、チョローチン・兎年の竜月十三日)にザンチョー市において五十五歳の生涯を閉じている。
インジャンナシは十九世紀のモンゴルを代表する写実主義の作家であり、その作品はモンゴル文学の遺産のうち重要な位置を占めているといってよく、『ホホ・ソダル』は彼の代表作である。なお、モンゴルの文学史上、このように長大な小説をモンゴル語によって著した作家はインジャンナシ以外に稀である。
今回出版(訳注:内蒙古の1957年版)された全三巻は、モンゴル文学研究会議による出版物を原本として他の版や手書き原稿も参照し、誤字脱字を改めて出版したものである。インジャンナシの手書き原稿(一部分のみ)、油版(?)、石版、鉛版、およびその他の分冊はすべて内蒙古歴史言語研究所に収められている。
『ホホ・ソダル』は本来では百二十章あるはずだといわれているが、現存するのは六十九章のみである。インジャンナシはこの作品を執筆するにあたって、元朝の終焉までを描写するつもりでいたようだが、実際に最後まで執筆されたかどうかは判明していない。この六十九章のうち、六十章はチンギス・ハーンが生まれてから亡くなるまでの出来事を主に描写しており、最後の九章はオゴテイ・ハーンの時代の出来事を描写している。
この作品の作者インジャンナシは、内蒙古のジョスト盟トゥメド・バローン旗(現在の遼寧省の北票郷)においてショダルガ・バト・ホローの貴族の家に生まれ、生年月日は1837年5月15日(当時の暦では17年ウラクチン酉年4月16日)である。
インジャンナシは幼名をハスチョロー、中国語名を宝衝山(ポー・デャンシャン)といい、潤亭(フォインティン)という称号を持つ。彼は当時のトゥメド・バローン旗の忠信府にワンチンバルの第七子として生まれた。母親の名前はマンヨシャルで、六番目の兄の名前はスンワイ・ドンツォグ(ポー・シュンシャン)という。
インジナシの父・ワンチンバル(ポー・ジャンシャン)(1795〜1847) は文武両道の才能に恵まれた人で、『ホホ・ソダル』の最初の八章を書いたのはワンチンバルだったが、彼が第八章を書き終えた1840年にはアヘン戦争が勃発したため、執筆を中断して旗の軍隊を率いて参戦した。**市付近では**の侵略者の一団と戦って退けるという大きな功績を収めている。インジャンナシの兄・スンワイドンツォグもまた非常に才能のある人物で、インジャンナシを助けて『ホホ・ソダル』の一部を執筆し、『通鑑綱目』という中国語の歴史書を資料としてモンゴル語訳し『ホホ・ソダル』の執筆に貢献した。
このような家庭環境にあって、インジャンナシは幼少の頃からモンゴル語と中国語を身に付け、十代の頃から詩を作ったり絵を描いたりした。彼の幼少時の詩集には、彼自身による山と雲を描いた挿絵が収められている。さらに山水や人物、動物、草花も実に巧みに描き、『**の花と雀』などの優れた絵画を残した。このことからしても、インジャンナシが非常に幼いころから文芸を身に付け、芸術的才能に恵まれていたことがうかがえる。インジャンナシはモンゴル語の本だけでなく中国語で書かれた歴史書である四書五経や『**』、『三国史』などの古典を読んで研究を行なった。彼自身の著作『ネゲンダプハル・アサル(平屋建て)』でも、『紅楼夢』に関する簡単な紹介がなされ、中国の古代の詩歌や文芸も流麗な**語を用いて書いた。彼はまたモンゴル語と中国語に精通していただけでなく、満州語とチベット語を読むこともできた。
インジャンナシは二十歳になるまで読書や詩作に励んでいたが、宗教的な影響を受けて運勢というものを信じており、時には当時の暗い世相を嫌って、隠遁生活を送りたいと考えていたようである。二十歳を迎えてからの彼はモンゴルの歴史書を読み始めるようになったが、これは後に『ホホ・ソダル』を生み出す基礎を与え、彼を民族的アイデンティティに目覚めさせたきっかけの一つと考えてよい。
しかし、インジャンナシは若い頃、自宅にこもって読書をしていただけでなく、モンゴルの各地を旅行してモンゴルの識者たちを訪ね歩いている。また、内地以外に北京、金州などの都市に何年か居住していたため、当時のモンゴルや中国、さらに世界の状況にも精通していた。
当時、中国の多くの民族の民衆は地方行政と清朝の圧制という二重の抑圧に苦しめられており、困難な生活を強いられていたが、これはインジャンナシの家庭生活にも影響を及ぼしている。そのため彼は「三十歳以降は生活状況が悪化し、妻子も亡くなってすべて物事がうまくいかなくなった」と述懐しており、紙に向かい合って詩作に没頭し、当時の暗い世相を批判した小説を書いて過ごすしかなかった。その後、インジャンナシは非運のうちにソムの役人となった。インジャンナシは『ホホ・ソダル』だけでなく当時の社会を舞台とした『ネゲンダプハル・アサル(一層楼)』、『ウラーナー・オヒラフ・タンヒム(泣紅亭)』などの小説を著し、階級闘争や封建主義支配などを痛切に批判した。
1891年にはインジャンナシは金丹道の乱を逃れて金州市に移り住み、翌年の1月9日(光緒十七年、チョローチン・兎年の竜月十三日)にザンチョー市において五十五歳の生涯を閉じている。
インジャンナシは十九世紀のモンゴルを代表する写実主義の作家であり、その作品はモンゴル文学の遺産のうち重要な位置を占めているといってよく、『ホホ・ソダル』は彼の代表作である。なお、モンゴルの文学史上、このように長大な小説をモンゴル語によって著した作家はインジャンナシ以外に稀である。
出典:内蒙古の1957年版『ホホ・ソダル』前書きより
この情報は2005年05月26日時点のものです。
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張家口
本文にある「チョーロルト・ハールガ」は現在の中国河北省・張家口のことだと思いますので併記されてはいかがでしょうか?
| nergui | 2006/11/09 12:40 | URL | ≫ コメント編集